深く瞑想に入るには、長い時間が必要になります。
しかし最初は、そもそも長く座っても、深く入れず、単に気が散って、瞑想が嫌になってしまうだけなので、最初のうちは、瞑想をしては休み、瞑想をしては休みという感じで、短い瞑想を何度も繰り返すのもいいでしょう。
しかし徐々に、集中力を増し、長時間の瞑想に入っていかなければなりません。
たとえば心の湖の、20メートルくらいのところまで、20分かけて入ったとします。その後、瞑想をやめたら、それは湖から陸に上がったようなもので、また瞑想に入り、その20メートルの位置に行くまでは、また20分ほどかけなければなりません。
20分かけて、休み、また20分かけて、休む。これを繰り返していたら、永遠に、20メートルの位置までしか行けない事になります。だからたまには、長時間の瞑想をする必要があります。あるいは可能なら、常にコンスタントに長時間の瞑想に入れるように訓練していかなければなりません。
しかし繰り返しますが、無理はしなくていいです。準備ができていないのにただ長く座っても、意味がありません。まず瞑想の準備を整える必要があります。
それはヨーガ的には、戒を守り、日々執着を弱め、マントラを唱え、聖典を読み、神に祈りをささげ、そして実際にアーサナやプラーナーマで心を安定させ、気の流れを安定させていくなどの方法が推奨されます。
仏教では、瞑想の障害となる五つの障害要素を取り除くため、その対抗要素をぶつけていく方法などがとられます。
たとえば執着を弱めるために無常や不浄について考える。
怒りや憎しみや嫌悪を弱めるために慈悲を瞑想する。
疑いを乗り越えるために正しい教えを学び、思索する。
心の退縮や眠気を乗り越えるために、呼吸法、経行などの肉体行や、心を燃えさせる教えについて考えたり、あるいは聖者の伝記を読んだりする。
未来や過去への期待や興奮や恐怖、後悔などを弱めるために、呼吸法や懺悔、あるいは具体的要因に基づいた対抗となる教えについて学び、考える。
まあ細かくいえばもっとありますが、こういった感じの対抗策をとっていきます。
これらによって実際に長く瞑想を続けられるようになり、それらが確定されてくると、次の段階に移行します。
ワープできるようになるのです(笑)。
たとえば以前は一時間くらいかかって行けていた、100メートルくらいの心の深さまで、瞬時に、あるいは数分程度で行けるようになります。
もちろん、そこから先に行くには、またそれなりの時間が必要になります。しかしその100メートルの深さまでは、努力が要らず、時間がかからずにいけるようになるのです。
これは瞑想の深さについてのみならず、修行の様々な要素についてもいえます。
たとえば私は以前、ある程度長く瞑想し、集中が成功すると、強烈な光が現われるようになりました。
しかしある時期から、努力しなくても、少し瞑想に入っただけで、光の世界に入っていくようになりました。
さらにある時期からは、瞑想しようとしなくても、何気なく眼をつぶっただけでも、光の世界に入るようになりました(笑)。
たとえば夜、暗い部屋の中で、寝ようと思って眼をつぶったとたん、強い光が発生して、電気がついたのかと思って目をあけるとやはり暗闇だった、ということがよくあります(笑)。
つまり私にとっては、その光の世界に入るというところまでは、努力が要らなくなったのです。
他の要素についても、ある段階まで達成すると、努力が要らなくなります。
そういう意味では、修行は、進めば進むほど楽になります。そのある段階までは努力が要らなくなるわけですから。
その努力が要らない、自然に身についてしまっている状態を、達成、成就、シッディといいます。
まあ、だから、何でもそうですが、修行も、最初のころが一番大変ですね。修行が進めば進むほど、努力が要らずに使える領域が増えていくので、楽になります。しかしもちろん、そこに安住せず、さらに上を目指して努力をし続けなければいけないのですが、実質的に努力なき達成を土台に努力をするので、それは楽というか、自然に生じる努力ということもできます。
――松川慧照エッセイ集1【瞑想の準備、長い瞑想、非努力】より
0:00 瞑想について
6:17 五蓋(執着)
8:53 五蓋(怒り、嫌悪)
9:44 五蓋(疑念)
11:04 五蓋(惛沈、睡眠)
11:46 五蓋(掉挙、悪作)